チーム

2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」は,主人公が吉田松陰先生の妹・文ということで,あまり有名な方ではないので視聴率が危ぶまれているそうだ。群馬の人にとっては,この文さんが嫁いだのが松陰先生の親友であり,初代群馬県令(県知事)の楫取素彦(小田村伊之助)さんなので,他の県の人に比べれば知られている(はずだ)。

とはいえ松陰先生や高杉晋作久坂玄瑞といった松下村塾の門下生たちに比べれば知名度は極めて低いし,大河ドラマで扱われることが多い有名な戦国時代の武将たちに比べても確かに低いが,有名な人物でないと惹きつけられないかというと必ずしもそうではないだろう。そもそも歴史の教科書に名前が残るような人物など世の中にほとんどいない。僕ら人間のほぼ全員が,名もなき人物として死んでいく。教科書に載るとまではいかなくても,ひ孫くらいまでは覚えていてくれるかもしれないが,曽祖父より前の先祖となると名前をそんなに覚えていないのと同様に,僕らの名前などあっという間に忘れさられる。僕らは確実に今生きていて,毎日泣き笑いのいろんなことを体験しているのに,そんなリアリティなど全てなかったことのようになる。だが,同じ NHK の「プロジェクトX」が以前ヒットしたように,僕らが親近感を覚えるのはむしろそんな人々の方なのではないだろうか。

教科書や様々な場面で語られてきた幕末の志士たちは本当にかっこよいが,彼らだけで世の中が動くはずはない。彼らを支えた圧倒的多数の名もなき人たちがいてこその活躍である。自分の仕事を振り返ってもそうだが,人前で講座をするにしても,場所を与えてもらわなければ何もできない。呼んで頂いてこその講演である。サポートしてくれる人たちがいて,聞きに来てくれる方々がいて,初めて場が立ち上がる。確かに話す人間は目立つ役割だが,相手があって,支えがあっての存在でしかない。そういう意味で,「講師:小林晋平」とチラシなりHPなりに書いてあるのは,小林晋平という一個人ではなく,チーム名であると考えるべきなのだと思う。精神科医名越康文先生が,「「自分も四十,五十と年を重ねていけば自然と周りの人が尊敬してくれて,敬ってくれるようになるんじゃないか」と思っていましたが,実際には違いました。年を取れば取るほど,人に頭を下げる場面はどんどん増えていったんです。」(『毎日トクしている人の秘密』・PHP文庫)と書いておられたが,全くその通りだと思う。

年齢を重ね,山の高いところへどんどん登って行けば,自分だけに違った風景が見えて,優越感を感じられるのだろうと若い頃は思っていたが,実際に見えた風景は,「しょうがねえなあ,晋平がまた何かやりたがってるから力を貸してやるか。」とか,「こっちはうまくやっといてやるから,好きにやりな。」と,肩を貸してくれた人たちが山ほどいるという景色だった。そうか,力をつけるということは,自身の無力・無知を知るということだったかと思い知らされた。

今年は自分がこれから十年掛けてやりたいことが見つかった,とても実り多い年だった。「チーム・小林晋平」として実行できる場所を与えて頂けたなら,来年は全力でそれに取り組む決意である。人と人,人と自然,そうした繋がりこそがその人を表すものだと思うから。