夏の夜

夏の夜はいい。ただじゃ終わらない感じがするからだ。それと対極にあるような気がするのは山の夏の朝だ。清々しいのは,空気と音と景色。顔から上ばかりである。足下には「再び」水滴と化したものがまとわりついている。どうにも山の朝は全てを下に押し付けただけの,上辺の爽快感に思えてしまう。それは綺麗事じゃないのか,と。

「現実全てをフラット化せずに見てしまえば,毎日が革命になってしまう。だから社会はそれを阻止しようと働くし,ある程度は流されることで自分でも自分を守ろうとする。当然,流れから手を伸ばして現実のザラつきを感じようとする人間は孤独になる。」

先日お話しさせて頂いた芸術家の方はこうおっしゃっておられた。これは芸術家や宗教家についての話の中で出てきた言葉ではなく,これからの教育について話す中で出てきた言葉である。人との付き合いでも,いろんなことが自分のこととしてリアルに感じられず,「他人事」になってしまっている人は多い。学校教育に至っては,ずっと昔からほとんどの人が,黒板に書かれた文章や数式を自分の体験として感じ取っていなかったはずだが,学校が持つ「職業訓練の場」としての側面を重視するという逃げ口上を使って無駄に時間を重ねてきたのである。

現実が持つ,ざらついた感覚を教育では無視してきた。学校の勉強が面白くないのは,理解できるできないとか受験がどうこうとか以前に,全てがどうでもいい他人事に思えるからということが大きな要因であるように思える。たとえ難しいことだろうが,興味のないことだろうが,自分にも経験があることや,その状況がありありと思い浮かぶようなことに人は無関心ではいられない。そして参加すれば「祭り」は楽しくなる。遠くから眺めているだけの祭りは羨ましいだけで,その切なさといったらない。

現実は綺麗事では済まないし,本来の学問も濾過された無菌の水ではない。人の営みである以上,清も濁も混在する。俗を遠ざけることは,実は聖の力を削ぐことにも繋がる。だから清濁併せ飲める器量を育てる必要がある。まずは「夜学」という試みから,始めてみようかと考えている。現実は厳しく汚い。だからこそ自ら理想を汚してはならないのである。