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 昨日からうちの高専では文化祭が開かれている。その名も工華祭。うちの文化祭は隔年開講で,文化祭が無い年は体育祭が開かれる。僕は高専出身ではなく自分の高校時代は文化祭も体育祭も毎年あったので,これには多少違和感を感じている。そして個人的には,文化祭の方が学生時代にやっておくべきイベントだと考えている。体育祭や運動会は軍隊の調練の名残りが入っているとか,戦後日本が貧しかったころにはそれなりに人気のイベントだっただろうけれど,正直今となっては…とか,まあ,理由はいろいろあるのだが,単純に文化祭の方がたくさん人が集まって賑やかだから好きなのだ。準備にも時間が掛かるし充実感もある。

 次世代の教育制度において,何を残し,何を継続するかという観点からも実は重要な問題なのだが,まあそれはまた別の機会にまとめて書くことにしよう。この問題(体育祭・運動)にはムラ社会・マチ社会の競合で生まれてその境目に残ってしまった位相欠陥に絡む要素も入っており,民俗学的に興味深いが,一筋縄ではいかないからだ。おお,別の機会に書くと言っておいて危うく踏み込みそうになった。

 さて,昨日はうちの子供達も工華祭に遊びにきて,かなり楽しかったようだ。うちに帰ってからも「すっごく楽しかった!」と言っていたし,3人ともうちに帰る車の中で熟睡仕切っていたから,疲れを忘れて楽しんだのだろう。5歳の娘は怖がりなのにお化け屋敷に入りたがり,案の定進まなくなって僕が抱きかかえて進むことになった。5歳ともなると結構重いので,子供を抱きかかえながらいろんな道(ネタバレするといけないので詳しくは書かないが)を歩いて汗だくになった。とはいえ娘に頼りにされると父親としては実に嬉しいもので…。何歳までこうやって頼ってくれるのか(いつまでも一人立ちしなければそれはそれで困るのだが),思わず遠い目になったりした。

 そういえば数年前に,学生達を一日研修につれていったお台場・日本科学未来館で,一人でお化け屋敷に入ったことがある。ちょうど「お化け屋敷を科学する」というイベントが開かれていて,副担の先生とおっさん同士で「お化け屋敷,入りますか!」ってのも妙な話なので一人で入ってみたのだが,これがまあ。一人だから不安で怖いっていうのはもちろんなのだが,何が嫌かというと,驚いて「わっ!」とか大声を出してしまった後の寂しさ!「怖さを誰かと共有出来ない」というのがこんなにもつまらないものかと初めて知った。人と一緒に居た方が,怖がったら恥ずかしく感じそうなものなのに,一人でビックリして声を上げたりビクッとしてしまう方がなぜか恥ずかしく,「何やってんだ,俺…」という思いが込み上げてくるのだ。

 以前,「ディズニーランドは一人で行っても楽しいのか?」という企画(実験?)がどこかのwebに載っているのを見たことがある。結果は,「一人でもとても楽しい!しかし,その楽しさを共有出来る人がいないのがとても寂しい…」とのことだった。なるほどなあと妙に納得したのを覚えている。

 学生にはよく言うのだが,期待している程確固たる自分は存在しない。朝と夜でも,会って話をしている人によっても,皆といるときと一人でいるときとでも,どれもだいぶ違った「自分」が存在するように見える。特に若い頃は「どれが本当の俺なんだ?」と思い,それらの共通部分か,それとも背後にあるかもしれない隠れている自分か,そういったものを探そうとしてしまう。しかし,薬でもやって脳にまやかしを見させでもしない限り,特に目新しい自分には出会えない。そもそも自分というのはもっともやもやしていて,出来事が起きる瞬間に立ち現れてくるものだから当然だ。少なくとも,探していたら「理想の自分」に出会いましたなんてことは有り得ない。

 ちょっとたとえ話をしよう。僕の「大きさ」と言うとき,それは大抵,可視光(目に見える光)で測った大きさだろう。しかし,僕をレントゲン写真で(つまりX線で)見れば骨だけが見えるわけで,それは普段見ている僕の大きさとはだいぶ違っているだろう。もし僕をサーモグラフィで見れば(つまり赤外線,僕から出ている熱を測れば),僕の体は目で見るものに比べてもやっとぼやけているだろう。ではそれら3種類の画像,どれが僕の本当の姿を映していますか?と聞かれれば,どれも僕の本当の姿である。

 敢えて光(= 電磁波)という,科学で用いられる道具を使って説明したが,精神的なものに置き換えても同じことなのだ。誰かの前で妙に萎縮してしまう自分も,やたら威丈高に振る舞ってしまう自分も,リラックスしてしている自分も,全部どういう「波長」の光を以て測定するかで結果が異なるだけで,どれも自分には変わりがないのだ。「素粒子には大きさがない」というのに非常によく似て,「自分には大きさ,つまり『自分そのもの』がない」のである。

 言ってしまえば,人間存在なんて地球や宇宙からしたら揺らぎみたいなちっぽけなものである。正直なところ,「いてもいなくても変わらん」くらいのものであろう。そもそもそんなたいそうなものじゃないのだが,そんなどうしようもなくちっぽけで,それでいてやたらと身の程知らずな人間存在が,あがいてあがいてあがいて生き抜いている。そして,宇宙の歴史と比すればいかに一瞬でも,連綿と何かを継続して,ここまで生き延びてきた。共有感覚がなければとても寂しくなることや,自分探しに無駄に時間を費やしてしまうことは,きっとずっと前の時代の人類から何も変わっていないだろう。だがそれだけに,やっぱり僕は人間というものは「愛すべき大バカ野郎」だと感じる。僕たち人間はバカだ(これに疑念を差し挟む人はいないのではないか)。間違いなくバカだし,ダメだし,発展途上もいいところだ。本当にひどい奴や許せない外道もいる。そして人間がいなくても地球からしたら痛くも痒くもないくらいのしょぼい存在だが,それでもなぜか「人間っていいなあ」と感じ,可能性を感じてしまう。何なのだろう。

 僕は今まで会ってきた人に恵まれていたのだろうか。甘く,ぬるい世界に漬かっていたというだけか。もしそうだとしたら,喜んで僕と同じ道を進めよう。いい出会いに恵まれる人が増えるなら,それでいいではないか。そして,温室で育つ花が,雑草に比べて決して弱いわけではないということも伝えよう。人との繋がり,いや,人に限らなくてもよい,様々なものとの繋がり,その「全体」は,輪郭こそぼやけて無限に広がっているが,間違いなく存在しているのである。