周行して殆からず(しゅうこうしてあやうからず)

 NOTHの企画で、物理学者で大阪大学教授の橋本幸士さんトークセッションをさせていただいた。橋本さんとは僕が大学院の頃からお付き合いさせていただいているのだが、よくよく考えてみるとじっくり話したのは僕がカナダのペリメーター研究所にいたころ、橋本さんがセミナーに来られたとき以来だった。一緒にお寿司(店の名はYes Sushi(笑))を食べに行ったのが懐かしい。そんなこともあってか、トークはむちゃくちゃ盛り上がり、予定の2時間を大きくオーバーして4時間にもなったのだが、本当に幸せなひと時だった。

 そのとき2013年10月号のパリティで橋本さんが特集された「美と素粒子論」の話題になって、橋本さんから僕が思う美について尋ねられ、僕は「対称性が破れたところまでひっくるめて美しいと思うんです。」と答えたのだが、この考え方はとても珍しいそうだ。

 それで、僕のこの感覚は何なのだろうと考えていたのだが、どうやらこれは西洋庭園と日本の庭の違いに近いんじゃないだろうか。別に洋の東西で分けなくてもよいのだが、つまりはシンメトリーを大事にした庭もいいけれど、掃き清めた後の庭石に落ち葉が一枚落ちてくるのもいいなあと思うのだ。
 
 高い対称性が為す美も好きなのだが、同時に粋(いき)な美も、風情のある美も、情緒のある美も好きだ。

 「物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改まらず。周行して殆(あやう)からず。以て天下の母と為す可し」(『老子道徳経』第二十五章)。この「周行して殆(あやう)からず」、つまり天地に先だって「在ったもの」は、どのように巡り、どのように歩もうと危うくない、誤りがないというこの一節が僕の中になぜか確信めいて存在しているのだ。
 
 僕が勝手に確信していることと、その確信を自然が「採用」したかどうかは全然別の話だが、物理は「何を以て何を見るか」という学問であるし、僕はこの気持ちを以て自然を見つめたいのだな、そういう物理がやりたいのだなと気付かせてもらえた。

 僕のまとまらない話をじっくり聞いて下さり、絶妙の相槌でトークを展開させて下さった橋本さん、そして会を企画して下さったNOTHのスタッフの方々や、会場を提供して下さった○塾(わじゅく)代表の宇高さん、イベントに参加くださった皆様に心から感謝致します。本当にありがとうございました!