真のオリジナリティとは

上毛新聞のコラム「視点 オピニオン21」に寄稿させていただいているのだが,昨日が原稿締切だった第4回目の記事はオリジナリティについて書いた。別の場所でも何度か書いてきたが,これについては明石散人氏のいう「オリジナリティの基準とは根元ではなく分岐点にある」という考え方に触れた時,確かにその通りだと思った。

根元を問うていくと,最終的には全てのオリジナルは人間が猿だった時代にまで遡ってしまう。人間は誰しもほとんど同じ身体構造をしているので,発想が似るのは当然である。身長が10mの人や体重が1gの人,100mを1秒で走れる人や野球のボールを1km投げられる人がいれば,そうした人の発想は今の社会では見かけないものになるだろう。腕が10本ある人や足が20本ある人がいても,その人たちの発想も私たちとはだいぶ異なるはずだ。私たちの発明はどうしても体の延長に縛られるからだ。だから真のオリジナルなど問うても意味がない。どこかから何かが伝播してきたことも当然あるが,「体のつくりが大差ないから」という理由で,同時発生的に似たようなアイデアが生まれるのは仕方ないのだ。「必要は発明の母」とはよく言ったものである。だから「真のオリジナル」など問うても意味がない。強いて言うなら真のオリジナルとは宇宙が始まったその瞬間のみだろう。

これに対し,むしろ先に存在していたものを受けてそこから枝分かれが発生する分岐点ができたときに「オリジナルが生まれた」と見なすべきだというのが明石氏の主張である。明石氏は例の一つとして日本の将棋を挙げている。中国・韓国・タイにも将棋はあるが,(1)それらは駒の枚数が日本のものとは違い,(2) 日本の将棋の敵の駒を取ってもそれを再利用するルールはなく,(3) 日本の駒のように先が三角になって進行方向を表す形をしていない,という三つの違いがあることに注目している。特に駒の再利用は手のバリエーションを格段に増やすので「日本独自の将棋」と呼べるものだという考え方である。オピニオンのコラムで私はスマホの例をあげたのだが,スマホも携帯電話の延長だと思えばオリジナリティはない。だがスマホに独創性がないという人はおそらくいないだろう。スマホによって明らかに分岐点が発生し,それを使って私たちができることが格段に増えたことは誰の目にも明らかだからだ。

オリジナリティとか独創性とかいう言葉はとても聞こえがいい。特に私たち日本人は「独創性がない」「他人のマネばかりしている」と言われることが多いので,なんとなくコンプレックスに感じてしまう。分岐点を作り,歴史に名を残す人はもちろんかっこいいので憧れもする。だが気をつけなければならないのは,そうした分岐点が既存のものに影響されて生まれているという事実である。先行する何かがなければ何も生まれない。「必要は発明の母」という言葉はここでも有効なのだ。長生きしてもせいぜい100年程度の私たちが,これまで人類が作り上げてきたものから何も学ばずに,たった一人の想像,いや妄想だけで独創的なものを作り出せることはまずないだろう。できると思うのは単なる勉強不足である。これは仕事だけでなく生き方に関してもおそらく当てはまることで,「これまでの成功は自分の力によるものだ」と思っているうちは,実際に自分の力だけでできる程度の大したことないことしかやっていないか,周囲の人間が「しょうがねえなあ。あいつに力貸してやるか」と,影で苦笑いしながら助けてくれていることに気付かない能天気なバカから成長していないということなのだろう。私はすぐに調子に乗る方なので,そうなっていないかどうか毎日省みなければならない…。

オリジナリティの話に戻ろう。教科書だけで勉強していると,体系的に整理された理論がまるで最初から天啓のように与えられたのではないかと勘違いしてしまう。実際にはもちろんそんなことはなく,教科書にまとめられるようになるまで大量の試行錯誤を繰り返し,様々な混乱を経て整理された形になっただけである。特に門外漢にとってはその分野でなぜそれが重要なことなのか,それまでの経緯がわからないので余計に「なんでこんなことを思い付けるんだ…」と感じてしまう。もちろん細かい部分で「すごい思い付き」はいくつもあるのだが,自分の行き着く先が最初から明確に見えていることはないだろう。そもそも人間が想像出来る程度の行き先に落ち着くようなものは面白くもなんともない。

個人レベルで,そして個々の業績レベルで,分岐点を狙って作ることは難しいのだろう。テーマパークなどで「あなたが10万人目の来場者です!」と誰かが選ばれた,というニュースを見ることがあるが,分岐点を作るというのはそういうものなのかもしれない。先人が積み上げてきたものがあって,たまたまそれが飽和に達したタイミングで最後のブロックを積むのが自分だった,ということなのではないか。つまり分岐点とは個人が作るものではなく,多くの人の共同作業から生まれるのではないだろうか。では「どうしてあの人はいつも分岐点を作るような独創的な業績を生み出せるのか。なぜあの人ばかり最後のブロックを積む役なのか」と思う人もいるだろう。簡単である。他の人より多く,何回もブロックを積んでいるから,最後のブロックを積む回に当たる確率が高いからである。自分の仕事は独創的だろうかと悩んで立ち止まっている間に,一つでも多くブロックを積む。考えている暇があったら一行でも多く本を読む。そうやって動きながら考えているからなのだろう。私たちに未来は予言できない。考えるだけ時間の無駄なのである。